一神教ってどんな世界観なのか?
日本人には、理解しにくいと思います。
なぜなら、日本には、森羅万象の背後に、八百万神がいる神観念が根付いているからです。
一方で、一神教は排他的で危険と感じる日本人は多いようです。
しかし、宗教における世界の標準的な考え方は、一神教的なものとなっています。
では、皆さんに馴染みのない一神教の世界観をご紹介していきます。
Contents
ユダヤ教、キリスト教における一神教の考え方
全知全能の神ヤハウェ
ユダヤ教、キリスト教において、ヤハウェが唯一で全知全能の神です。
ヤハウェには意思や感情、記憶があり、世界のすべての出来事に関わっている。
つまり、罪深く不完全な人間の営みの背後に、全知全能の神ヤハウェという人格神がいます。
神とのコミュニケーション
人々は、人格的な存在である神とのコミュニケーションを図ろうとします。
これを「祈り」といいます。
「祈り」は、一神教に特有なものです。
また、理不尽な境遇にあった場合は、これを神からの試練として、「祈り」を通じた神との対話を繰り返します。
そして、これを将来の理想的な状態への試練だと受け止めます。
また、イスラム教もキリスト教と同じく「祈り」を捧げます。
毎日決まった時間に、イスラム教の聖地メッカの方角にひれ伏すことで祈りが捧げられます。
一神教の合理的な世界観
一神教において、超常的な奇蹟を神が起こすことがあります。
これは、自然法則を合理的にとらえていることの裏返しです。
つまり、一神教は科学に沿った考えに基づいているからこそ、奇蹟を起こすという発想に至るのです。
多神教の考え方
多神教では、基本的に、自然現象の背後に、それぞれの神が関わっています。
例えば、山には山の神、川には川の神、海には海の神といった具合です。
このように、神にはなわばりがあり、どの神もヤハウェのような全支配権を持っていません。
また、自然崇拝などの原始的な多神教は、呪術的です。
儀式や捧げものを通じて、神々や精霊に病気の治癒や、自然の恵みを要求します。
神々の超自然的な力は人間の道具的な要素となっており、とても人間中心的です。
日本の神道
どの自然現象の背後にも、それぞれ神々がいて、その恩恵で人々が生きていると考えます。
特に神道は、伝統社会に根付いた多神教。
自然と人間の調和が重要視され、自然の背後にいる神々を拝みます。
仏教
梵天、帝釈天、毘沙門天などインドの神々は仏教の経典に出てきます。
つまり、仏教は多神教です。
一方で、その神々の役目は、一神教のような主役ではなく脇役です。
主役は、あくまでも宇宙の真理を覚ったブッダ。
また、ブッダの覚りを通じて、世界を普遍的に理解しようとしている点において、一神教の考え方と非常に類似しています。
ただし、一神教のように、自然現象の普遍的な原因は神の意思ではありません。
仏教では、すべては法則と宿命によって決まっていると考えます。
自然法則を徹底的に認識し、一切の誤解がなく、自分と宇宙との完全調和に達した状態が「覚り」の境地。
この境地に達したのがゴータマ・シッダルタです。
彼は仏(ブッダ)であるが神ではない「覚った人」です。
儒教
儒教は、神をまつる概念を持っており、多神教的な世界観といえます。
一方で、神々の地位は高くありません。
儒教は、人間が行う政治を中心に自然や宇宙をコントロールすべきと考えます。
つまり、自然現象の背後にいる神々は軽視され、訓練された政治的リーダーが重要となります。
人間の争いや政治経済は、政治的なリーダーシップによって解決されると考えるのです。
まとめ
世界標準はむしろ一神教的な世界観です。
多神教である仏教、儒教においても、神々の存在は低く、意味が薄い。
これは、多くの国々の歴史において、異民族の侵略など文明の破壊と再建が繰り返される中で、原始的な多神教の神々は放逐され、普遍的な価値観へと置き換わっていったことによります。
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